祖父が生きた時代 3 | the day of my grandfather lived 2020.05.23.

祖父は長い間日記を付けていた。私がまだ実家に住んでいた頃、三年間分まとめて書ける分厚い日記帳が祖父母の部屋の、壁の書棚に並べてあったのを覚えている。母は祖父母が亡くなってから、誰も片付けを手伝ってくれる人がいない中で、一人淡々と祖父母の遺品を整理していった。振り返ってみると、当時の母は半ば両親から、あるいは家という重荷から解放されるために、断捨離を黙々と行っていたようだ。 あるとき、祖父の日記を読んでみたくなった私は、母にそのことをたずねてみると、とっくに捨てちゃったわよ、とあっけらかんと言われ、何も言い返す言葉がなかった。できれば取っておいて欲しかったのだけれど、煩わしい家のことに関わろうとしない私に文句が言えるわけもなく。 祖父が亡くなってもう二十年になる。時とともに母の心境も変わってきたのか、つい先日、日記とは別に残されていた祖父のノートが見つかったとわざわざラインで知らせてきた。あの頃の母ならさっさと捨ててしまっていただろうに、こうして時間差で見つかることで孫に受け継がれる遺品がある。 その後、私も祖父のノートが読みたくなって、そのうち送って欲しいと頼んでいたところ、今日そのノートが二冊、他の荷物と一緒に届いた。一冊は祖父が晩年に集めた新聞記事の切り抜きノートだった。圧倒的に戦争に関連した記事が多い。その次は農業に関するもの。そして政治、教育と祖父が何に関心を寄せていたかがうかがえる。その他よく目についたのは「声」欄の切り抜きだ。一般の人からの声の、共感を寄せた文章に赤線が引いてあった。購読していた新聞が地方紙だったせいか、中には友人や知人が投稿したものもあるようだった。 もう一冊はトルストイやラスキン、孔子などの名言を書き綴ったノートだ。裏表紙に昭和14年と書かれている。300ページ近くあるノートの中には、ヒトラーやムッソリーニの名前も出てくる。昭和14年と言えば、1939年、ちょうど第二次世界大戦が勃発した年だ。祖父は当時25歳でその前年から松山の療養所に入所していた。二回目の徴兵で肺の病気と診断されたからだ。 この二冊のノートは日記ではないので、ほとんど祖父の私見や感想は書かれていない。たまに日々の記録かと思われる文章があるのだが、なかなか字を読みこなせないのが痛いところ。ノートの上部両端にページ数が記入されている。259と書かれたページにはこんなことが書かれていた。 昭和十八年四月二十七日 南方最前線海鷲指揮中の連合艦隊司令長官山本五十六大将は機上壮烈なる戦死を遂ぐ・・・腹部貫通銃創か?・・・一時危篤の報 天聴に達するや元帥府に列せられ大勲位功一級を賜う 六月五日国葬 常々戦場ニ在リ こうして祖父の歴史に触れるとき思うのは、戦争を断絶した過去として捉えるのではなく、私たちもその延長線上に生きているということ。過去をただ糾弾するのではなく、そこから目を背けず、また美化することもなく、今ここにある事実を見つめながら向き合い続けたい。 母はこのノートと一緒に簡単な手紙を添えていた。以前の母では考えられないことだが、そこには、大事に保管してくださいと書かれてあった。 きっと何かしら受け継げることがある、祖父のノートをめくりながらあらためてそんなことを思った。

御直披 | Personal Letter 2019.12.21.

  『御直披(おんちょくひ)』を久しぶりに読み返してみた。 当時、神奈川県警察本部性犯罪捜査係長であった板谷利加子氏による性犯罪被害者との交流を綴ったノンフィクション小説だ。単行本のあとがきは、平成9年(1997)12月になっているので、いまから20年以上前の事件をもとにしている。 この本を読んでいた頃の私は、女性であるというだけでなぜこのような被害に遭わなければならないのか、自分では防ぎようもない性犯罪について、ただならぬ怒りを感じていた。というのも、この本を読む前に、友人が深夜自宅に入るとき、突然後ろから襲われレイプされたという話を聞いていたからだ。彼女は警察に届け出たが、ほぼ泣き寝入りに近い形でこの事件は過ぎ去っていった。私は遠方に住んでいたこともあり、その話を聞いた時何も力になれなかった。 『御直披』の中で被害者だった松井さん(仮)が事件後のことを語った件がある。 「・・・想像上の苦痛は、それが自分の想像を上回るかもしれないとの恐怖により耐えきれなくなるそうです。頭では白昼、そのようなことが起こるはずはないとわかっていても、想像上の恐怖に、実際の苦痛より何倍も大きい恐怖にこれから何度も出会わなければならない、その理不尽さに戦いたのです」 私たちは完全無垢な世界で生きているわけではないから、何らかの暴力的行為を肌で感じた経験がある人は多いはず。たとえば父が母に振るう暴言であったり、学校で行われていた体罰、SNSでの誹謗中傷も広い意味で暴力と言える。そして『御直披』のような被害者の手記を読むことで、実際に体験はしていなくとも想像上の苦痛、恐怖に警戒心でいっぱいになることもあるだろう。性犯罪を受けた人、受けていない人でも、何かしらの傷、トラウマを与えてしまうのがこの犯罪の根深いところでもあると思う。女性だけが被害者になるわけではないが、男性には力の上では負けてしまうという事実が、女性たちの自由な活動を無意識のうちに抑制させてきたことは往々にしてある。 『御直披』が出版されてから20年が経ち、#MeTooの力もあって女性は声を上げやすくなった。道端で見知らぬ男性に強姦される、嫌がっている女性を力で押えつけ無理矢理レイプする、そういった犯罪に留まらず、それが犯罪だと言いにくいような巧妙な形で行われた性行為も告発されるようになってきた。 今回伊藤詩織氏の事件についてネットなどで見る意見は様々である。多くの人が伊藤氏の活動に共感し、支援したいと思う一方で、彼女にも非があっただろう、山口氏のやったことは卑劣だが、結局のところ真実はわからない、どっちもどっちではないか、という意見もある。さらに、民事裁判の前に警視庁へ告訴したが不起訴処分になったのは、安倍首相のお抱え記者だった山口氏への配慮があったからではないかという推測も飛び交っており、やや政治色を帯びてきたことに根本問題がぼやけてしまったという見方もあるのだろう。 そもそもこの裁判は起きてしまった被害について責任を問うものであり、起きないようにするためにはどうすべきだったか、という議論はされない。安易に、自己防衛すべきだったなんてことを言い出せば、セカンドレイプ、ということで攻撃されるのは確かだし、彼女はジャーナリスト志望、だから・・・と感じている人もいるだろう。そして私自身、今回のバッシングも含めて色々なことを思った。これは個人的な問題であって、当事者同士で解決できるものではないか。なぜ世間を巻き込んでいるんだ、と疑問を持つこともあった。 でも、同じように感じている女性がいたら少し考えてみてはどうだろう。女性は長いこと、安心して生きていくためには自己防衛が必要であると思い込まされてきただけじゃないかと。本来、自由に心のおもむくままに生きる権利があるはずなのに、それを、出る杭は打たれるから、そんな格好ならレイプされても仕方ない、色目を使うな、少しぐらい女っぽくしなさい、もっと地味にしなさい、子供を産んでなんぼ、等々・・・本来の自分からどんどん遠ざかっていくような感覚に陥ったことはなかっただろうか。「私」が「私」らしさを出したことで世間から非難の目で見られたり、腸が煮えくり返るほどの怒りを感じたことがあっても、いつも黙ったまま我慢、我慢・・・ もしかしたら、伊藤氏はあの日泥酔せずに、意識もはっきりしていたら、あのようにホテルには行かず、嫌な目にも遭わずにすんだかもしれない。そこでドラッグが使われたかどうかは今の時点ではわからない。いずれにしても、彼女は何としても山口氏に会う必要があったのだろう。それは生きくためにどうしても必要なことだった。結果的にああなってしまったことは、不本意以外の何ものでもなかったはず。 憲法前文にはこうある。 われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 女性は少しずつ小さくなる。無意識にトラウマがあると、自己防衛に入り、自分らしさを出さずに、ちょっと控えめになったりする。そして自己防衛が強い人ほど、むしろ開放的に生きている人のことを無意識のうちに嫉妬したりするのかもしれない。そして、開放的で、自立した人がそのことで何かしらの傷を負ったとき、ほらね、という自己責任論を繰り出してくる。一見成功している女性が同姓の女性を非難するときも、同じような心理がはたらいているのではないか。成功しているからと言って、その人がすべてのトラウマや抑圧から解放されているとは限らないからだ。 昨日伊藤氏と山口氏の外国特派員協会での記者会見を聴いた。 伊藤氏はこの事件をきっかけにジャーナリストとしての本領を思う存分発揮しているという感じだ。一方、山口氏は公共性というより、一個人として身の潔白を晴らしたいという内容に終始している。なので、ある記者からの「仮に伊藤氏が嘘をついているとしたら、何のためにそんなことをしていると思いますか?彼女の意図は何だと思いますか?」という質問に対して、ただ「わからない。けれど、結果的に彼女は世界から色々なもの得ている」というようなことを答えていた。 そう、答えはそういうことなんだろう。伊藤氏がいま多くを与えられている人であるならば、それは伊藤氏がそうなるべくしてなっているということ。山口氏はそれを認めることができない。 誰だって自分がいつ何かしらの被害者になるかわからないし、もしかしたら加害者になっていることもあるかもしれない。性犯罪に限らず、それは自己責任だろうと何かをジャッジする前に冷静になる。なぜ自分は被害者の立場に寄り添えないのか自問自答してみることは大切だろう。今回の件を通して、あらためてそんな風に感じている。  

恋文 | A love letter without words. 2019.12.08.

最近になってよくベートーヴェンを聴いている。約200年前の今日12月8日は、ベートーヴェン自身の指揮によって交響曲第7番が初めて演奏された日なのだそう。ハーナウの戦いで負傷した兵士たちのための慈善コンサートだった。 長いこと私にとってベートーヴェンとは交響曲6番「田園」のイメージで留まったままだった。母が好んでこの曲を聴いていたからだと思う。なので、今も「田園」を聴くと母のことが真っ先に浮かんでくるので、あえて違う曲を聴いてしまうのだけれど、あらためてその世界に踏み込むと、簡単には逃れられない。 正直ベートーヴェンのことは小学校の図書館においてあった伝記から得た程度の知識しか持ち合せていない。当時音楽教室に貼られてた年表のベートーヴェンの似顔絵が今も私のベートーヴェン像である。つい最近になってImmortal Beloved(不滅の恋人)という手紙の存在を知ったくらいだ。宛名が書かれていないその手紙は、あまりにも情熱的な恋文なだけに、誰に宛てて書かれたものかと好奇心をそそられるのは無理もない。この手紙から想像されるベートーヴェンの人物像が、音楽とは言葉を介さない恋文であることを純粋に教えてくれる。 12月1日また一つ歳をとった。ある時期から誕生日はお祝いしてもらうというより、産んでくれた母に感謝する日だと思うようになった。母はロマン・ロランを読んでいたが、そのきっかけはベートーヴェンの音楽が好きだったからだろう。 「・・・無限の霊を持っている私たち有限の人間どもはひたすら悩んだり喜んだりするために生まれていますが、ほとんどこういえるでしょう―最も秀れた人々は苦悩をつき抜けて歓喜を獲得するのだと・・・」 母の文庫本に線が引かれていたこの一節を、私はメモして今もノートに残している。家の掃除をしながら「田園」を流していた母の心に、いったいどんな感情が渦巻いていたのか、小学生だった私には知る由もなかったが。 それにしてもベートーヴェンが残した手紙の相手はいったい誰だったのだろう。確かに興味をそそられる。あれほどの手紙なのだから。でも本当はそんなことどうだっていいのかもしれない。何故なら、ベートーヴェンにとって言葉は二次的なものでしかなかっただろうし、特定の誰かを想像する以上に、ベートーヴェンが見晴るかしていただろう、もっと違う世界のことを想像する方がより真実に思われるからだ。

彼岸花 | Equinox Flower 2019.11.03.

もうとっくに彼岸花の季節は過ぎてしまった。 従兄Tに続き、Tの弟Mも事故死したと聞いたのは9月の終わり、ちょうど彼岸花が咲き始めた頃だった。 静岡にいた私は、母から届いた思いがけないラインにまた唖然とした。 元々東京に住んでいた従兄弟のTとMは、伯母の実家でもある私の地元に小学生のとき引っ越してきた。 複雑で面倒な大人の事情をよそに、私たちはそれなりに幸せな子ども時代を共に過ごした。 後年、あの頃(子ども時代)が一番良かったと、Mは母によくこぼしていたらしい。 Mとは同級生で、小学、中学と同じ学校に通ったが、高校からは別の学校になり私はその後東京に出た。 大学生になってからほとんど従兄弟に会う機会はなく、時折母から二人の話を聞くくらいの関係になっていた。 二人の母であるY伯母は、とても知的で優しい人だった。 子どもの頃、「こんじょもん(方言)」と言われることの多かった私は、負けん気が強く、男勝りなところがあった。 良く言えば自由奔放、悪く言えばわがままに育っていく姪っ子を心配し、ちゃんと嗜めてくれたのはY伯母であった。 そんなY伯母は50代で亡くなってしまった。 Mはいつの間にか結婚し、二児の父となり、いつの間にか離婚していた。 私がまだ結婚も出産も経験していない間に、Mは人生の山場を迎えどんどん大人になっていった。 ただ早く大人になった分、人生の苦労も多いMだった。 生活が大変だと遠巻きに知りながら、学生の自分は楽をしているのではないかと、どこか後ろめたい気持ちになることもあった。 お祝いをしなければ、何か力になれることはないだろうか、そんな風に考えることもあったが、また機会はあるだろうと、実家に帰省してもM達に会おうとはしなかった。 そうしてどんどん月日は流れ、Mの最新の近況は母から送られてきた、事故死したというラインであった。 もう二度と会う機会はない。 子どもの養育費や兄Tの起こした面倒の後始末のため、昼も夜も仕事をかけ持ちして働いていたという。 そんな仕事中に起きてしまった事故死だった。 ああ、天国でY伯母と兄Tに再会しているだろう。 そう思うことで、私は何も力になれなかった後悔をごまかし、自分を慰め、贖罪としてこのブログを書いている。 今の私にできる唯一の弔いとして。

紫陽花 | The Season of Hydrangea 2019.06.02.

母親から従兄のTが死んだとラインで知らされた。最後に会ったのはいつかも覚えてないくらい疎遠になってしまった従兄の死に、悲しみがこみ上げてくるわけもなかった。 ここ数年、Tのことで良い話は聞いていなかった。私と二つしか歳の違わない従兄の突然の死を、悲しむべきものであることはわかっていても、正直、近所に住んでいる母の気苦労の種が一つ減ったと思うと、死が誰かの救いになることもあるのだと不謹慎なことを感じてしまった。神様はもうここまででいいんだよとTを連れていったんだから、お疲れさま、と言う方が何だかしっくりくる。それに、きっと数年前に他界した伯母とあの世で再会しているだろう。 そもそも、母がTのことをラインで伝えてきたことに驚いたということもあった。母のそのそっけなさにいらだちを感じた。母とは結局このことについて直接話をしなかったが、話をしたところで、私の方が感傷的になり過ぎるのはわかっていたし、長いことこちらから何の連絡もしていなかったTに、お悔やみの言葉を言える立場でもない気がした。ここに書いていることは、そんな自分への言い訳と慰めのようなものだ。 人はあっけなく死んでいく。そのあまりのあっけなさに涙は込み上げてくるのか。 その人を失ったという喪失感よりも、その儚さと、人生の不条理に対して。